絶対に働きたくないでござる!!

働きたくない。

ああ、そりゃあ、もう。満員電車が嫌とか、残業が嫌だとか、そういった社会問題になるようなことではない。
そのような生活に悩んでいる人は不満を漏らしたって皆理解を示してくれる。

しかし、もっと別次元の「働きたくない」があるのだ。
理解されない、どん引きされる、説教をくらう、そういう「働きたくない」が。


私の場合。
決まった時間に起きたくない。目覚ましだろうが起こされること自体不快。
起きた時点で気分が暗い。起きた自分を恨む。仕事があると落ち込んで朝日を全く綺麗と思えない。仕事がなくても近いうちに仕事なので喜べない。
朝食は食べても食べなくてもその日の体調や気分で選びたいのに、うまく働けなくなるかもしれないから、と胃袋に詰め込むのが嫌い。
朝っぱらから外歩いている人間見たくない。そもそも外行きたくない。
仕事場についた時点で、私を動かすものは人の目に変わる。グダグダしているとか、そういうことを思われたくない、といった緊張で勝手に体が動くようになる。不可解で不快。
人前では皆、なにかしら猫被るもの。しかしその感覚が気持ち悪い。だれかの目につく場所にきた時点で思考と感情の一部が猫かぶりに持っていかれるが、心底嫌っている振る舞いと情動になるため押し込めた自分から猛反発食らう。テンションは下がり、ネガティブな考えばかりが浮かぶようになる。
些細なことでイライラするようになる。たいしたことなくても気分が落ち込む。
ずっとわけのわからない、とにかくその場から逃げ出したくなるような、しかし身動きのとれないような感覚のただなかにいる。
そして唐突に、一時間に一度くらい、なんだろう、悪い意味ですーっとくるような感覚がある。動悸がはやくなって、音や光、雑多な視界、においに床を踏みしめる感覚の不快さが急激に上がる。
雑談を楽しそうにしている人たちを見て、自分もこうならなくちゃいけないのでは、と不安になる。雑談の重要性は知っている。しかし話の内容を聞いて自分には絶対むりだな、と諦める。話しかけられてもさっさと話が終わるほうに持っていってしまう。よっぽどに話しかけられるのがいやなのか?働いているときは一度必ずこのことについて考えている。止めることはできない。
作業をするかたわらで何もかも投げ出したい、とか、さっさと辞めたい、とか、家賃と水道光熱費と食費のために働いているならそれ全部カットすれば働かなくてもいいじゃん天才か!とか、世の中の人はなぜ働けるのだろうか、とか、今後経済が成長したとしてこれ以上人間の欲を煽ることになるのだからあまり歓迎できない世の中になるだけじゃないのか、とかずっとぐるぐる考えて止まらない。気分が悪い時に出る思考なので、つまるところ、働いているときはほぼ常に気分が悪い。
接客業の場合、客がぶっきらぼうな態度だろうが快い態度だろうが総じて不快だ。
本気で、死ねば働く必要はないのになんでこんなことしているんだ?と自分に問いかけるようになる。
恥をかいたり誰かに迷惑をかけたりするのが本気で嫌だ。誰かに何か思われたり干渉されたりするのが駄目で、そうならないようにと気を配りはするがもともとミスしやすいので二日に一回は失敗する。ものすごく凹むし、慰めだろうがなんだろうが声をかけられるのが癪だ。
誰にだって話しかけられたくないし話したくない。しかし、仕事中に実際にそうなると困る。それはそういう職場でない限り普通じゃないからだ。普通でない対応をとられる、ということは何かしら相手が自分について考えていることになる。怖い。
ずっと同じ時間のなかでそんなことが頭の中でぐるぐる回る。だからそこにいるだけで、ひどく消耗する。これを自滅という。止められない。仕事中にいつの間にか湧き上がってくるものなのだ。
そして急に申し訳なくなる。何に対してなのだろう?疲れた。

なんとか何事もなく無事に帰ってこれたこしても、すでに気力はゼロ。あるいはマイナス。
自分のコントロールがうまくいかなくなって、食事の内容と部屋がめちゃくやになって戻らない。
空いた時間もぼーっとするか、眠るかの二択になる。ぼーっとしながらネットの記事を見て回って、外の音を聞きたくないからイヤホンで耳をふさぐ。音楽で頭を埋めておく。
たのしいことってなんだっけ?考えようとして、辛くなってやめる。気力の源はいずこ。いや大丈夫だ、ほしいものがある。気力と時間だ。でもそれ、このままで手に入るか?遠ざかっているような気がするけれど。
音楽でもっといろいろ吹き飛ばそう!そう思って音を大きくしても、「明日もしごと」という事実がずっと頭にへばりついてのしかかっている。
一日二日と休みが入ったところでこの考えにとらわれないことはない。常に、そう!常に、不安と憂鬱が頭のどこかを占めている!
アルバイトで、かなり環境も良いのにもかかわらずこれだ。人間関係のよくない職場とか会社員とか、なんで仕事を続けていられるのだろうか?死なないのか?
なんとか風呂に入って寝るときに朝なんてこないでくれ、と思う。眠りはものすごく深くて、朝がすぐにきてしまう。

 

精神的な異常をきたしているわけではない。食べられるしちゃんと眠れる。ふるまいも表向きはちょっと内気な凡人、くらいだ。だから私が単に、クズと揶揄される側の人間なんだろう。
でもさすがに仕事中の思考とテンションがおかしいんじゃないか。客観的に自分を見るなんて難しいけれども、徐々に死のうと思う回数が増えている。しんどい。これが普通ならこれ以上厳しい仕事をしている人もっと自殺しているはずだなー。じゃあやっぱりおかしいほうなのか?
どこがおかしいのか、どうすればいいのか、何が問題でこんな思考回路になっているかわからない。何度だって抵抗した。変えようとしてきた。でも、もういいや。

仕事をやめれば逃れられるのだ。お金の問題はあるが、冷静に考えればまだ死ぬのは早い。そう思って仕事を辞めた。
喜びはなかった。とにかく安心できた。これで「明日は仕事」をはじめとしたぐるぐる回る思考回路から抜け出すことができる、とぼけっとしながら思った。
しかし、自分のような人がほかにも結構いるんじゃないか?今まで自殺した人たちのなかにもしもの自分がまぎれていたかもしれない。仕事をしなければならないという、一種の強迫観念は悪だな。かといって、今後どうやって暮らしていくのかめどはたっていないから、たいした批判はできないが。

しかし、もう働きたくない。あのわけわからん思考のループと真っ暗な感覚はもう味わいたくない。これが普通だと思っていままでやってきたけれど、もう無理だ。本当にあの感覚は不気味で理不尽なソレで、内側から絶えず湧いてくる。得体のしれない、原因不明のなにかとこれ以上付き合いたくない。というか、これ以上悪化させたら仕事にならないかまた外出できなくなる予感がひしひしとくる。仕事は駄目だ。労働は精神をむしばむ。あかん。

うん。書いていてわけがわからなくなってきた。仕事辞めてまだ日がたっていないから仕事についての考えがまとまらない。どうしよう。

 

社会に適応できないから仙人ブログ始めてやる【後編】

この世は地獄だ。
そうでなければ、これほどまでに苦しいはずはない。
望みは叶わない。よくわからない何かに邪魔をされてすぐに自分自身のことすら把握できなくなる。意志はすぐに崩れ去る。
最低限の安泰すら望めない。これから先に期待しようとも、すぐ目の前のことに疲れ切る。希望はそうして散る。
緩慢に過ぎる時間、怠惰に過ごす時間。時は進むのに、その場から動けない。一向に動けない。

私は自分自身のことを社会不適合者だと思っている。なにか大きな問題を抱えているわけではないし、多大な疲労を周囲に与えることもない。
後回し癖があって小心な凡人だ。何もかも平均以上になることはない。
ただ、価値観が少しずれている。そのせいで真っ当になれない。そして豆腐メンタルだ。ガラスハートって次元じゃねぇ。
この精神と照らし合わせてみたときの人間社会は地獄なのだ。

物心ついたときから違和感はあった。
覚えている限り、四歳のとき病院にて女の人が乳幼児を抱いて微笑んでいるポスターに激しい嫌悪を覚えたのが最初だった。自分でも意味がわからなかった。
両親にそんなに似ていないと親戚に言われ喜んだ。しかしこいつはなぜそんなことを言いだすのか?気持ち悪いと思った。
なぜか親とか兄弟とか親戚とか、血縁の概念ががこの上なく嫌いだった。虐待とかそんなことはなかった。親は怒られるのでできなかったが、兄は絶対名前で呼んだ。友達と変わりないと思っていた。
友達とは楽しく遊べたらそれでよくて、遊べなくなったら残念、で終わりだ。大切とか思ったこともない。大切、必要だと言えば遊びたいときにいつでも好きなことで遊べるのか?そんなことはない。
というか、人間の造形が気持ち悪いと思う。顔は見るとちょっとSAN値減る。できれば手足も見たくない。話や共同作業にに意識が集中したり視界に入っていなければ大丈夫。
テレビや新聞で報道されるニュースとか全く興味なかった。噂話も理解できなかった。誰かがどうしたとか死んだとか心底どうでもよかった。

こんな風に、世間一般とどこかずれていることが多々あった。その気になれば、こんなのはおかしい、変だ、いやだと思ってしまうことを見つけるのはたやすい。どこにでもある。
こういうことを探したり考えたりするのは嫌なことだった。自身が心底不快に感じている物事や価値観が世間で大手を振って歩いていると認識せざるを得ない。お前はおかしい、と大半の人間に言われているようなもので、本当にこんな世の中で生きていけるのか?と、そのたびに不安に駆られる。どうしょうもなくチキンな自分も嫌いだ。
不快で不快で不快で仕方がなかったから、なるべく差を見つけてしまいそうな情報は避けた。ストーリー性の強いゲームは避けたし、本は子供向けの図鑑しか読まなかった。
外で遊ぶことが大好きだった。雨の日は友達とゲームで遊んでいたし、一人で工作に熱中するのも楽しかった。
大人の人とはできるだけ話さなかった。大人の言葉は自分にとって聞いてはいけないものだ。ずっとこのまま、自分は大人になんてならないだろう、とあてもなく信じていた。
でもそんなこともなく。やがてクラスメイトと話が、テンションが、興味が、どんどんかけ離れていった。第二次成長期を激しく呪った。
本心を奥へ押しやって周囲と合わせていたが、日に日に辛くなっていく。
まさか、ずっとこのままなのか?こうやって耐え続けるしかないのか?というかこれおかしくないか?もしかして自分はイタいやつなんじゃないか。中二病?早く治さないと。治らない。不安でたまらない。何度も死んだほうがいいんじゃないかと思った。
最も嫌いな感情は不安、最も長く強く表れる感情も不安。不安はより強く、恐怖へと変わる。一気に何もかも恐ろしくなった。声を出すのも、人の視線も、字を書くことも、歩くことも。あ、これ、駄目なやつだ、と思った時には外出できなくなっていた。
なんとか最低限持ち直した後はバイトを始めた。長くは続かなかった。そして、少し転々として、確信を持った。
社会性を得るということは、社会、世間にて一般的または理想的と思われる価値観に自分を合わせ、最初からそうであるようにふるまうこと。苦痛はその価値観が異なるほどに増す!例外は人を騙すのが好きな場合のみ。

やってられるかぁ!!
私は逆ギレした。こちとら生来の感性はどうにもならないわ嘘がばれるリスクを考えてでも成したいことなんてないわまして豆腐メンタルだわ、まぎれもなく将来は真っ暗なのだ。
恐怖はたやすく怒りへ転じる。一度周囲に合わせようとして内側からの恐怖と不快感に負け自滅したが、合わせ始めたころから不特定多数の人間に嫌悪感を持つようになっていた。漫画やアニメ、小説が更に苦手になった。心理描写が多すぎて疲れてしまうのだ。人間の写真も鏡に映る自分も駄目になった。


まともに生きていくことはできない。今はもう、そうなるつもりもない。


じゃあどうしようか?そもそも自分はどうしたいのだろうか。
ろくにに考えたことはなかった。ずっと、大人になってしまったら働くしかない、どうせずるずる食いつないでどこかで無様に死ぬのだろう、と思っていた。
しかし、今は違う。逆ギレしてからは本心を認識できるようになった。

もしも、何でもできるなら。どんな願いでも叶うなら、望むことは?


苦しみから逃れたい。それだけじゃない。自分が嫌う全てから離れ、邪魔はことごとく排除して自分が望むものごとだけを追求したい。関心のある事柄を好奇心のままに追い求められたらなんてすばらしいのだろう!
誰とも会わないでずっと質素な部屋にて本を読み続ける。そしてときどきネットサーフィンする。それが一番の理想!


せっかく望みが手に入ったのだから。
叶えてみせなければ面白くない。

甘々と言われようが、最近の若者はと嘆かれようがどんなに批判を受けようが無視できる。もっともっと自分勝手にならないと自分に殺される。
法に触れず義務は無視して倫理は投げ捨て、権利は曖昧にする。それで地獄から抜けられるのなら喜んでやってやる。うまくいったら一抜けた、と叫ぼうじゃないか。私は大人げないくらいがちょうどいい。

そこで、ちょっとした思い付きがあったのだ。

目標は単純な言葉で表せたほうがいい。そうすれば意識しやすい。いわゆるレッテル張りの効果もあるだろう。何か、目標に近い言葉はないか?
私の目標か。働くのは嫌だ。奴隷になるのは勘弁願いたい。学生にももうなりたくない。社会に出たら変死する自信はある。
できるだけ一人でいたい。恐怖から逃れたい。不快な価値観から逃れたい。興味のあることだけ勉強したい。あとはどうでもいい。
それが目標。そして、これだ!と思える単語は仙人だった。

単語の候補はいろいろあった。

世捨て人。世捨て、というのは良いが、それだけでは足りない。世の中が嫌だからって考えなしに山に逃げたらあっという間に野生児か犯罪者かのたれ死ぬかの三択だ。そんな可能性の残る言葉は避けたい。自身を縛りかねない言葉は慎重に選ばないとどうなるかわかったものじゃない。豆腐メンタルは影響を受けやすいのだ。
じゃあ、修行僧?これも違う。仏教の考えの一部は自分の精神から不要なものを探して消すには役立つし、瞑想や一部の修行は参考になる。ただ、余計な要素もおおいため、それ以上にはならない。信仰心ゼロの僧侶というのもよろしくない。いそうだが。
隠者、という言葉もある。これはなかなかに良い。ただ、地に足のついて落ち着きはらった印象が強すぎる。キリスト教からくる善性イメージも強い。もっと自由で身勝手なほうがいい。
というわけで、仙人を目指すことにした。

道教が元の言葉ではあるが、仙人という言葉自体にすでにかなりの幅がある。そして、決して善悪のイメージを含むこともない。

善悪という概念はどうしても社会性を意識しがちだ。すでに社会性を得ようとしてがんじがらめになっていった自分にとってはそのイメージは危険だった。

 

浮世離れしてとらわれることのなく、欲に乏しく、しかし探求心のある理知的な存在という意味をこの言葉に求めて、それを目標にすると決めた。

しかし、目標を決めるだけではどうなってしまうかもわからない。意志は全く信用するに足らない。そんなもの、気分が落ち込めば砕け散る。
だから外部に発信しよう。ブログという形で考えを残していけばうやむやになる可能性は下がりそうだ。それに、もしかしたらそこから面白い情報が舞い込んでくるかもしれない。
似たような考えの人がいるかもしれない。何か参考になるかもしれない。
こうやって表明していけば少しはどうしようもない恐怖心も薄れるかもしれない。
もしかしたら急にやめたくなって消してしまうかもしれない。まあ、それでも構わない。
書いていれば、思考の整理にも忘備録にもなる。なにもかも自分のためだ。
絶対に人目を気にした記事は書かない。どんな理由であろうとも、書かない。自分の考えを守るために始めたブログでそんなことしたら自責+無力感+わけがわからなくなるというメンタル即死コンボが発生する。

さて、働いて生きていくことのできない私は今後どうなるのかね。

社会に適応できないから仙人ブログ始めてやる【前編】

こんなの、地獄に決まっている。
何もかも嫌だった。
それを自覚して私は、仙人になりたい、などというバカげた夢をもつようになった。


大人は社会の奴隷だ。
幼いころからときどき「仕事は苦しいもの」という親の言葉を聞いていた。
どうやらそれは事実らしい。仕事が好きな人と働くこと自体が好きな人以外にとって、仕事とは一日の何割をも失いさんざん嫌な思いをしてやっと、それと引き換えにお金を手に入れるものらしかった。こわい。
しかし、稼いで手にいれたお金は何に使うのだろうか。自分の時間もあまりとれず、疲れた頭のままでいれば、判断力は落ちる。
ふとした拍子に、自分にとってさして関心のないことに使ってしまったそのお金は、あなたがあのとき時間を費やし不快な思いをしながら手に入れたお金だったのだ!

何かを考えるたび少しづつ、気疲れを起こし判断力が落ちる。嫌な思いをし続けると輪をかけて思考力判断力ともに落ちる。

疲れた頭で判断を下すのは難しいし、だるい。そんな状態で棚に並べられた商品を見たらちょっとでも好みのものは買いたくなるし、おなかがすいていたら飲食店に入ってしまう。
鬱屈とした気分を変えたいのだ。そりゃあそうだ。よっぽどの変態でもない限りそんな気分は喜べない。金銭感覚のある人は無駄金を使った翌日か、あるいは買ったその瞬間にでも、自分に嫌気がさす。そうじゃなくたって、月末にでもなればなぜか思ったよりお金がない、と憂鬱になる。
疲れや苛立ち、不快感からはそう簡単には逃れられない。

そして、売る側は、皆がお金を落とすようになるからよく宣伝する。広告が周知されればバカや考えなしや疲れた人がよく買ってくれる。そうやって情報を操作して誰かの欲を増やす。競争が過激な現代、もっと利益をたたき出さなくてはと社員を酷使する。周りも同じようなことしてるから目立たない。いわゆるブラック企業だけの話ではない。効率化を求める。責任を求める。すでにもう、働くということが一般的な世の中だ。
転職だってまだまだ簡単にできるものではないし、労働そのものに対して意見することはもっとずっと難しい。そうそう口にできるものではない。たいていバカなの?死ぬの?と一蹴されるか、みんなやっているんだから、と的外れで回りくどい説教を受けるだけだ。
解消が難しいストレスの、根を絶やそうという発想に行き着くことすら簡単ではない。物質もも精神も資本主義に染まるこの社会、順応できずストレスによって誰かを攻撃する人があらわれる。自分が何をしているのかわからなくなって打ちひしがれる人がいる。自身の世界を守ろうと躍起になる人もいる。気晴らしに財布を開く。だべって愚痴る。不幸自慢を始める。そんな人が世の中の多数派だ。
それにしても。せっかく手にしたお金を煽られた欲や社会との同調のために使ってしまうなら、結局ただ働きのようなものだろうに。現代の高度な奴隷だよ。


学生は皆囚人だ。
決められた時間のなかを過ごさなければならず、服はこれを着る、荷物はあれをもってきてここに置く、じっと椅子に座り続ける。そして話を聞かなければならない。それがどんなに退屈でも、相手がそれでお金をもらっていようとも、抗議をあげることは許されない。毎時間礼という中身のない儀式を強要され、外にもろくに行けず、行けたと思えば走らされ、言われたことはしなければならず、うまくいかないと怒られ、一日の大半をそうやって過ごしてもなおなにかしらの理由で時間をとられる。
鈍感ならばいざ知らず。まともに受け止めてしまう人や異常性を感じる人にとっては校舎は牢屋となる。日常も行事も、楽しめなければ苦痛と化す。そんな毎日では笑うと顔が引きつる。
あなたのクラスにいた、ぱっとしなくて周囲になじめてもいなかった学生は、なにを思っていたのだろうね?

学校が強いる社会性に、集団が求める同調についていけなくなりついに外出ができなくなったとき、私は引きこもりになった。
どうして自分が、とずっと悩んでいた。いじめられた人がなるものだと思っていたからだ。
夏休みの宿題は互いに写し合い別のクラスなら忘れ物を貸し借りする。休み時間はつるんだり、放課後に遊んだり。そのくらいの間柄の友達は何人も普通にいた。でも駄目だった。
日々不快ばかりを感じて苛立っていたし、鬱々としていた。やがて学校にいるとつねに不安と緊張とがあり、自分の一挙一動が気になり始めた。廊下を歩いていても、じっと座っていても、とにかく気分が悪かった。
勉強ってこんなものだっけ?もっと楽しいものだったはずなのに、いつの間にか苦行になっていた。
何もかも曖昧にごまかして早く学校が終われと願うだけの毎日になった。周囲の目が怖い。明日を迎えたくない。とくに将来に希望なんて見いだせなかった。いつ解放されるのか?それだけが気になった。
成績が下がって心が折れた。外は一気におぞましいものに変わった。家の中のほうがまだマシになった。
まあ、私のような人間もいるのだ。苦痛を感じるハードルが低い、社会不適合な人間。

学校は、社会生活を営む大人にとって邪魔な子供を隔離する都合のいい場所。今思えば、仕事はもう少し選べるのに学校には不自由しかなかった。労働は義務で教育は権利なんだろ?逆じゃないか?一々行動を制限され建物から出られないなんて!刑務所か?刑務所だろ?刑務所のことを学校というのか?
なんの罪もないはずの無知な子供を囚人のように扱うなんて、教育に関しては人類皆罪人なのか?キリスト教徒のアメリカ人には学校に通ったりしないもっとフリーダムな子供もいるのだけれど。

労働について考えたとき、学校を思い出したとき、私の思考はこの域を出ない。

誰がどれだけ仕事は尊いと言えど、学校は素晴らしいと言えど、変わらない。

時間がたつほどに、知りたくなかったことを知ってしまう。好きなことがわからなくなり、楽しいと感じることはなくなっていく。その一方で嫌いなものばかり増えていって苦しい。こんな世の中は嫌だ、と本気で思うようになっていった。