社会に適応できないから仙人ブログ始めてやる【前編】

こんなの、地獄に決まっている。
何もかも嫌だった。
それを自覚して私は、仙人になりたい、などというバカげた夢をもつようになった。


大人は社会の奴隷だ。
幼いころからときどき「仕事は苦しいもの」という親の言葉を聞いていた。
どうやらそれは事実らしい。仕事が好きな人と働くこと自体が好きな人以外にとって、仕事とは一日の何割をも失いさんざん嫌な思いをしてやっと、それと引き換えにお金を手に入れるものらしかった。こわい。
しかし、稼いで手にいれたお金は何に使うのだろうか。自分の時間もあまりとれず、疲れた頭のままでいれば、判断力は落ちる。
ふとした拍子に、自分にとってさして関心のないことに使ってしまったそのお金は、あなたがあのとき時間を費やし不快な思いをしながら手に入れたお金だったのだ!

何かを考えるたび少しづつ、気疲れを起こし判断力が落ちる。嫌な思いをし続けると輪をかけて思考力判断力ともに落ちる。

疲れた頭で判断を下すのは難しいし、だるい。そんな状態で棚に並べられた商品を見たらちょっとでも好みのものは買いたくなるし、おなかがすいていたら飲食店に入ってしまう。
鬱屈とした気分を変えたいのだ。そりゃあそうだ。よっぽどの変態でもない限りそんな気分は喜べない。金銭感覚のある人は無駄金を使った翌日か、あるいは買ったその瞬間にでも、自分に嫌気がさす。そうじゃなくたって、月末にでもなればなぜか思ったよりお金がない、と憂鬱になる。
疲れや苛立ち、不快感からはそう簡単には逃れられない。

そして、売る側は、皆がお金を落とすようになるからよく宣伝する。広告が周知されればバカや考えなしや疲れた人がよく買ってくれる。そうやって情報を操作して誰かの欲を増やす。競争が過激な現代、もっと利益をたたき出さなくてはと社員を酷使する。周りも同じようなことしてるから目立たない。いわゆるブラック企業だけの話ではない。効率化を求める。責任を求める。すでにもう、働くということが一般的な世の中だ。
転職だってまだまだ簡単にできるものではないし、労働そのものに対して意見することはもっとずっと難しい。そうそう口にできるものではない。たいていバカなの?死ぬの?と一蹴されるか、みんなやっているんだから、と的外れで回りくどい説教を受けるだけだ。
解消が難しいストレスの、根を絶やそうという発想に行き着くことすら簡単ではない。物質もも精神も資本主義に染まるこの社会、順応できずストレスによって誰かを攻撃する人があらわれる。自分が何をしているのかわからなくなって打ちひしがれる人がいる。自身の世界を守ろうと躍起になる人もいる。気晴らしに財布を開く。だべって愚痴る。不幸自慢を始める。そんな人が世の中の多数派だ。
それにしても。せっかく手にしたお金を煽られた欲や社会との同調のために使ってしまうなら、結局ただ働きのようなものだろうに。現代の高度な奴隷だよ。


学生は皆囚人だ。
決められた時間のなかを過ごさなければならず、服はこれを着る、荷物はあれをもってきてここに置く、じっと椅子に座り続ける。そして話を聞かなければならない。それがどんなに退屈でも、相手がそれでお金をもらっていようとも、抗議をあげることは許されない。毎時間礼という中身のない儀式を強要され、外にもろくに行けず、行けたと思えば走らされ、言われたことはしなければならず、うまくいかないと怒られ、一日の大半をそうやって過ごしてもなおなにかしらの理由で時間をとられる。
鈍感ならばいざ知らず。まともに受け止めてしまう人や異常性を感じる人にとっては校舎は牢屋となる。日常も行事も、楽しめなければ苦痛と化す。そんな毎日では笑うと顔が引きつる。
あなたのクラスにいた、ぱっとしなくて周囲になじめてもいなかった学生は、なにを思っていたのだろうね?

学校が強いる社会性に、集団が求める同調についていけなくなりついに外出ができなくなったとき、私は引きこもりになった。
どうして自分が、とずっと悩んでいた。いじめられた人がなるものだと思っていたからだ。
夏休みの宿題は互いに写し合い別のクラスなら忘れ物を貸し借りする。休み時間はつるんだり、放課後に遊んだり。そのくらいの間柄の友達は何人も普通にいた。でも駄目だった。
日々不快ばかりを感じて苛立っていたし、鬱々としていた。やがて学校にいるとつねに不安と緊張とがあり、自分の一挙一動が気になり始めた。廊下を歩いていても、じっと座っていても、とにかく気分が悪かった。
勉強ってこんなものだっけ?もっと楽しいものだったはずなのに、いつの間にか苦行になっていた。
何もかも曖昧にごまかして早く学校が終われと願うだけの毎日になった。周囲の目が怖い。明日を迎えたくない。とくに将来に希望なんて見いだせなかった。いつ解放されるのか?それだけが気になった。
成績が下がって心が折れた。外は一気におぞましいものに変わった。家の中のほうがまだマシになった。
まあ、私のような人間もいるのだ。苦痛を感じるハードルが低い、社会不適合な人間。

学校は、社会生活を営む大人にとって邪魔な子供を隔離する都合のいい場所。今思えば、仕事はもう少し選べるのに学校には不自由しかなかった。労働は義務で教育は権利なんだろ?逆じゃないか?一々行動を制限され建物から出られないなんて!刑務所か?刑務所だろ?刑務所のことを学校というのか?
なんの罪もないはずの無知な子供を囚人のように扱うなんて、教育に関しては人類皆罪人なのか?キリスト教徒のアメリカ人には学校に通ったりしないもっとフリーダムな子供もいるのだけれど。

労働について考えたとき、学校を思い出したとき、私の思考はこの域を出ない。

誰がどれだけ仕事は尊いと言えど、学校は素晴らしいと言えど、変わらない。

時間がたつほどに、知りたくなかったことを知ってしまう。好きなことがわからなくなり、楽しいと感じることはなくなっていく。その一方で嫌いなものばかり増えていって苦しい。こんな世の中は嫌だ、と本気で思うようになっていった。