社会に適応できないから仙人ブログ始めてやる【後編】

この世は地獄だ。
そうでなければ、これほどまでに苦しいはずはない。
望みは叶わない。よくわからない何かに邪魔をされてすぐに自分自身のことすら把握できなくなる。意志はすぐに崩れ去る。
最低限の安泰すら望めない。これから先に期待しようとも、すぐ目の前のことに疲れ切る。希望はそうして散る。
緩慢に過ぎる時間、怠惰に過ごす時間。時は進むのに、その場から動けない。一向に動けない。

私は自分自身のことを社会不適合者だと思っている。なにか大きな問題を抱えているわけではないし、多大な疲労を周囲に与えることもない。
後回し癖があって小心な凡人だ。何もかも平均以上になることはない。
ただ、価値観が少しずれている。そのせいで真っ当になれない。そして豆腐メンタルだ。ガラスハートって次元じゃねぇ。
この精神と照らし合わせてみたときの人間社会は地獄なのだ。

物心ついたときから違和感はあった。
覚えている限り、四歳のとき病院にて女の人が乳幼児を抱いて微笑んでいるポスターに激しい嫌悪を覚えたのが最初だった。自分でも意味がわからなかった。
両親にそんなに似ていないと親戚に言われ喜んだ。しかしこいつはなぜそんなことを言いだすのか?気持ち悪いと思った。
なぜか親とか兄弟とか親戚とか、血縁の概念ががこの上なく嫌いだった。虐待とかそんなことはなかった。親は怒られるのでできなかったが、兄は絶対名前で呼んだ。友達と変わりないと思っていた。
友達とは楽しく遊べたらそれでよくて、遊べなくなったら残念、で終わりだ。大切とか思ったこともない。大切、必要だと言えば遊びたいときにいつでも好きなことで遊べるのか?そんなことはない。
というか、人間の造形が気持ち悪いと思う。顔は見るとちょっとSAN値減る。できれば手足も見たくない。話や共同作業にに意識が集中したり視界に入っていなければ大丈夫。
テレビや新聞で報道されるニュースとか全く興味なかった。噂話も理解できなかった。誰かがどうしたとか死んだとか心底どうでもよかった。

こんな風に、世間一般とどこかずれていることが多々あった。その気になれば、こんなのはおかしい、変だ、いやだと思ってしまうことを見つけるのはたやすい。どこにでもある。
こういうことを探したり考えたりするのは嫌なことだった。自身が心底不快に感じている物事や価値観が世間で大手を振って歩いていると認識せざるを得ない。お前はおかしい、と大半の人間に言われているようなもので、本当にこんな世の中で生きていけるのか?と、そのたびに不安に駆られる。どうしょうもなくチキンな自分も嫌いだ。
不快で不快で不快で仕方がなかったから、なるべく差を見つけてしまいそうな情報は避けた。ストーリー性の強いゲームは避けたし、本は子供向けの図鑑しか読まなかった。
外で遊ぶことが大好きだった。雨の日は友達とゲームで遊んでいたし、一人で工作に熱中するのも楽しかった。
大人の人とはできるだけ話さなかった。大人の言葉は自分にとって聞いてはいけないものだ。ずっとこのまま、自分は大人になんてならないだろう、とあてもなく信じていた。
でもそんなこともなく。やがてクラスメイトと話が、テンションが、興味が、どんどんかけ離れていった。第二次成長期を激しく呪った。
本心を奥へ押しやって周囲と合わせていたが、日に日に辛くなっていく。
まさか、ずっとこのままなのか?こうやって耐え続けるしかないのか?というかこれおかしくないか?もしかして自分はイタいやつなんじゃないか。中二病?早く治さないと。治らない。不安でたまらない。何度も死んだほうがいいんじゃないかと思った。
最も嫌いな感情は不安、最も長く強く表れる感情も不安。不安はより強く、恐怖へと変わる。一気に何もかも恐ろしくなった。声を出すのも、人の視線も、字を書くことも、歩くことも。あ、これ、駄目なやつだ、と思った時には外出できなくなっていた。
なんとか最低限持ち直した後はバイトを始めた。長くは続かなかった。そして、少し転々として、確信を持った。
社会性を得るということは、社会、世間にて一般的または理想的と思われる価値観に自分を合わせ、最初からそうであるようにふるまうこと。苦痛はその価値観が異なるほどに増す!例外は人を騙すのが好きな場合のみ。

やってられるかぁ!!
私は逆ギレした。こちとら生来の感性はどうにもならないわ嘘がばれるリスクを考えてでも成したいことなんてないわまして豆腐メンタルだわ、まぎれもなく将来は真っ暗なのだ。
恐怖はたやすく怒りへ転じる。一度周囲に合わせようとして内側からの恐怖と不快感に負け自滅したが、合わせ始めたころから不特定多数の人間に嫌悪感を持つようになっていた。漫画やアニメ、小説が更に苦手になった。心理描写が多すぎて疲れてしまうのだ。人間の写真も鏡に映る自分も駄目になった。


まともに生きていくことはできない。今はもう、そうなるつもりもない。


じゃあどうしようか?そもそも自分はどうしたいのだろうか。
ろくにに考えたことはなかった。ずっと、大人になってしまったら働くしかない、どうせずるずる食いつないでどこかで無様に死ぬのだろう、と思っていた。
しかし、今は違う。逆ギレしてからは本心を認識できるようになった。

もしも、何でもできるなら。どんな願いでも叶うなら、望むことは?


苦しみから逃れたい。それだけじゃない。自分が嫌う全てから離れ、邪魔はことごとく排除して自分が望むものごとだけを追求したい。関心のある事柄を好奇心のままに追い求められたらなんてすばらしいのだろう!
誰とも会わないでずっと質素な部屋にて本を読み続ける。そしてときどきネットサーフィンする。それが一番の理想!


せっかく望みが手に入ったのだから。
叶えてみせなければ面白くない。

甘々と言われようが、最近の若者はと嘆かれようがどんなに批判を受けようが無視できる。もっともっと自分勝手にならないと自分に殺される。
法に触れず義務は無視して倫理は投げ捨て、権利は曖昧にする。それで地獄から抜けられるのなら喜んでやってやる。うまくいったら一抜けた、と叫ぼうじゃないか。私は大人げないくらいがちょうどいい。

そこで、ちょっとした思い付きがあったのだ。

目標は単純な言葉で表せたほうがいい。そうすれば意識しやすい。いわゆるレッテル張りの効果もあるだろう。何か、目標に近い言葉はないか?
私の目標か。働くのは嫌だ。奴隷になるのは勘弁願いたい。学生にももうなりたくない。社会に出たら変死する自信はある。
できるだけ一人でいたい。恐怖から逃れたい。不快な価値観から逃れたい。興味のあることだけ勉強したい。あとはどうでもいい。
それが目標。そして、これだ!と思える単語は仙人だった。

単語の候補はいろいろあった。

世捨て人。世捨て、というのは良いが、それだけでは足りない。世の中が嫌だからって考えなしに山に逃げたらあっという間に野生児か犯罪者かのたれ死ぬかの三択だ。そんな可能性の残る言葉は避けたい。自身を縛りかねない言葉は慎重に選ばないとどうなるかわかったものじゃない。豆腐メンタルは影響を受けやすいのだ。
じゃあ、修行僧?これも違う。仏教の考えの一部は自分の精神から不要なものを探して消すには役立つし、瞑想や一部の修行は参考になる。ただ、余計な要素もおおいため、それ以上にはならない。信仰心ゼロの僧侶というのもよろしくない。いそうだが。
隠者、という言葉もある。これはなかなかに良い。ただ、地に足のついて落ち着きはらった印象が強すぎる。キリスト教からくる善性イメージも強い。もっと自由で身勝手なほうがいい。
というわけで、仙人を目指すことにした。

道教が元の言葉ではあるが、仙人という言葉自体にすでにかなりの幅がある。そして、決して善悪のイメージを含むこともない。

善悪という概念はどうしても社会性を意識しがちだ。すでに社会性を得ようとしてがんじがらめになっていった自分にとってはそのイメージは危険だった。

 

浮世離れしてとらわれることのなく、欲に乏しく、しかし探求心のある理知的な存在という意味をこの言葉に求めて、それを目標にすると決めた。

しかし、目標を決めるだけではどうなってしまうかもわからない。意志は全く信用するに足らない。そんなもの、気分が落ち込めば砕け散る。
だから外部に発信しよう。ブログという形で考えを残していけばうやむやになる可能性は下がりそうだ。それに、もしかしたらそこから面白い情報が舞い込んでくるかもしれない。
似たような考えの人がいるかもしれない。何か参考になるかもしれない。
こうやって表明していけば少しはどうしようもない恐怖心も薄れるかもしれない。
もしかしたら急にやめたくなって消してしまうかもしれない。まあ、それでも構わない。
書いていれば、思考の整理にも忘備録にもなる。なにもかも自分のためだ。
絶対に人目を気にした記事は書かない。どんな理由であろうとも、書かない。自分の考えを守るために始めたブログでそんなことしたら自責+無力感+わけがわからなくなるというメンタル即死コンボが発生する。

さて、働いて生きていくことのできない私は今後どうなるのかね。